アートは情報処理が難しい!?AI時代におけるアート(芸術)について深堀する

おとてら本講座

今月の「おとなの寺子屋」のテーマは「AI時代におけるアート(芸術)とは?」でした。

人間が見つけられないがんを発見するAI新聞記事を書くAIなど、技術の進歩に伴い、子ども達が大人になる頃には、今ある仕事の多くがなくなっている、と言われていますが、人間の感性なくしては生まれないと思っていたアート(芸術)の分野もそうなのでしょうか?

認知心理学が専門でAI関連プロジェクトにも携わっている平原憲道先生(慶應義塾大学医学部医療政策・管理学教室助教&「おとなの寺子屋」主宰者)にお話を伺いつつ、参加者同士でディスカッションしました。

学術的な硬いお話ながらも、なぜかお笑いを聞いているように楽しく聞ける平原先生の話術は、今回も炸裂していましたよ!

データを握るのはGAFAM

冒頭、平原先生からAIについての基礎知識を教えていただきました。

世界中には膨大な情報が散在しており、その情報の多くを握りつつあるのは、GoogleFacebookAmazonAppleMicrosoftたった5社であること。

そしてその情報からわかることは、私達の想像以上のものであること。(例えば、ネットショッピングの履歴から、私の暮らしぶり、関心、好みがばれちゃう、という程度ではありません!メールの長さや文体から知的レベルから経済感覚まで、プロファイリングができるそうです!!)

そして、その膨大な情報量を活用して、その5社を中心に多くの企業が力を入れているのが、AIをレベルアップし様々な情報の活用方法を編み出すことだそう。

アートとAI

AIは「特化型AI」「汎用型AI」とに大別され、現在、各社が力を入れているのが前者。特化型とは、冒頭にも例を挙げたような特定の分野の情報処理に特化したAIのことです。

一方、汎用型AIは、いわば”ターミネーター”みたいなもので、ある程度、何でもできるAIのこと。ただし、完成度は今のところ特化型AIには遠く及ばず、実用化されるのは、私達のひ孫世代くらい先の話になりそうです。

その汎用型AIを考える時に外せないのが、アートそのものを記号を介さずに理解する感情を伴った能力(sense(センス)とかintuition(直観)などと呼ばれるもの)。

例えば、平原先生は、抽象画の大家ワシリー・カンディンスキーが大好きで、この芸術家のことなら何時間も語れるそうです。ただ、どれだけ言葉を連ねて語っても、「なんか違う・・・」、「伝わってないな…」という感覚が残ると言います。

それは、感じていることを”言葉”という記号に置き換えてしまうと、こぼれてしまう情報がたくさんあるから。アートは記号になりにくい、つまり、情報処理が難しいのだそうです。

コンピュータは、全てを0と1の記号に変換しないと動かないので、同じようにたくさんの情報がこぼれてしまう恐れがある。それをAIがどこまで拾い上げられるのか・・・。

数学的な発想では、まだまだ先の話ではあるけれど、表現する「桁数」をどんどん増やしていき、いずれ全てを拾い表現できるようになると確信する学者もいれば、それには懐疑的な学者もいるそうなのですが、どうなるんでしょうね。

「でも、こういうことをちょっと頭に入れておくと、感覚的な部分だけで終わらない、情報科学的な理解も踏まえてアートとAIの関係を議論することができるのでは」というところで、平原先生の解説は終了。


その後はディスカッションタイム。話は「AIはアートの世界でどこまでのことができるのか」という方向へ。

音楽を制作する側の声。

「音楽の演奏の部分で考えると、AIの演奏の特徴は正確さ。いろいろな演奏法を瞬時に弾きこなせます。でも感動は、演奏者自身の経験、学びなどから培われた個性に共鳴して生まれるものだと思うんです。AIだとそういう部分が伝わってこないのでは?」

こちらも懐疑派の声。

「コンサートに行った時のこと、演奏者と観客が一体となって盛り上がり、アンコールが3回も演奏されました。AIの演奏で、こんな感激、盛り上がりが起こったりするのかしら?」

こんな意見も・・・。

「『月の砂漠』を聞いて、昔のことを思い出し、わっと感情があふれてくるような気持ちになったことがあるんです。音楽のメロディと自分の中の何かがつながって心揺さぶられる、ということもあるのでは?一概に『AIでは感動しない』とは言えない気がします」

一方で、文章を書く側からは・・・

「新聞の決算報告記事、対談のサマリー記事など、AIが書いた記事は既にいろいろ出ています。わかりやすく、すごくよくまとまっていて驚きでした。小説の世界では、星新一賞の一次審査をAIが書いた作品が通過していたりしています。

でも、書くのはAIですが、ストーリーの骨子を考えるのはまだ人間のようです。テーマ決め、あるいは経験を入れる、調べて書くといったところでまだまだ人間にしかできないことは多いのではないかなと思っています」

などなど、AIについていろいろな意見がある中、平原先生、再び登場。

アートの捉え方は受け手次第

お話の中で、特に面白かったのは、戦後の「ポストモダン」(西洋中心主義に偏りすぎていた反省を受け登場したモダニズムをさらに乗り越えようとした学問や芸術の動き)の中でよく語られた「誤読する権利」の話。

アートを「正しく」解釈することのみを善とし、「誤読」はダメという従来の風潮に対して生まれた「アートは受け手が自由に捉えてOK!」という考え方です。そんなものがあったとは・・・。

曰く、「誤読をさせることも許容できることもアートが持つ価値。あるアートに触れ(直接関係のない)何かを『思い出す』というのは誤読の極み。でも、それが人を感動させているんです。そして、『誤読』をするのは受け手ですよね。そこが大事で、アートの投げ手がAIだから感動できる、またはできないと特別視する必要はないと思うんですよね」

「誤読OK」と言っても、抵抗のある方も多いかもしれません。でも、大御所の作家で「受け手が自由に解釈して」というスタンスの方は意外に多いのだそうです。

先のカンディンスキーも、平原先生に言わせると、「作品名からして、『正確に解釈してもらおう』という気配をほとんど感じない!タイトルからして「即興35」とか「いくつかの円」とか・・・。だから、誤読しても彼は、一ミリも傷つかないハズ」。

ね、誤読はOKなんです。

「アートを有難がってあがめるより、自分の在り方に近づけて、『誤読上等!』とすることで、アートはもっと身近になる。若い人達には、そういう感じでアートに接してもらいたいなと思いますね」と先生はおっしゃいます。

でも確かに、自分が作ったもの(私の場合なら書いたもの)を、意図通りに捉えてもらえるとうれしいけれど、意外な見方をされれば、それはそれで「あ、そこをそう見る?」と面白く思うかも。

作る側からしても、アートについて今の段階は、「AIはアートの上手な人が一人(一台?)増えた」くらいに思っておけばよいのかな。

最後に、参加者の方がおっしゃっていた棋士・羽生善治さんの言葉がとても印象的でした「AIと人間の違いは、AIには恐怖心がないこと、美意識がないこと」。言い得て妙で、一同納得。

参加者がそれぞれの視点で、率直な気づきや素朴な疑問をシェアしあい、そこに専門家の視点が加わることで、話が膨らむ、そんな知的好奇心をくすぐる1時間でした。まさに「寺子屋」ですね。

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